せっかく無名塾をとりあげたからには、日本の名優のひとりの仲代達矢とはどのような俳優人生を送ってきたのかが気になります。世界の黒澤からオファーがくるには、やはり役者という幅を超えてものすごい演技があればこそなので、どんな俳優道を歩んでいるのかが純粋に気になります。1932年(昭和7年)という年代に生まれて、178センチメートルという身長はスクリーンの中でもそして舞台の上でも大きく舞台栄えするだろうな。と思いますが、舞台そして映画またテレビドラマと幅広い活躍をして、間違いなく戦後の日本を代表する名優のひとりであることは間違いないでしょう。

劇団出身の名優

三國連太郎ももちろん日本を代表する俳優です。三國連太郎そして三船敏郎のふたりと大きく違うところは、お二人ともに映画会社出身の俳優というところです。仲代達矢は劇団出身ということもあって、映画と舞台と両方で活躍したという点です。それでいて仲代達矢の出演した映画作品で、三大映画祭のアメリカアカデミー賞、ヴェネツィア映画祭、ベルリン映画祭とすべてて受賞しているというおのがすごいところです。

俳優の道を進む

高校を卒業した後に、定職にはつかないでいろいろなアルバイトをしながら映画館や芝居小屋へ通うという日々を送っていた中で、俳優座公演をみて深く感銘を受ける演技を目にします。そしてこれだ!と思ったのでしょう。1952年(昭和27年)に俳優座の養成所に第4期生として入所します。

仲代達矢の同期生には宇津井健もいます。性格が違っても気が合ったようで、一緒にエキストラ出演していますがそのエキストラ出演した作品が「七人のサムライ」です。もちろんエキストラなのでセリフなどありませんが、数秒間のエキストラ出演が仲代達矢の役者人生には忘れることのない出演になりました。なんとたった数秒間の出演でありながら、時代劇の歩き方ができずに初のエキストラということで、時代劇の歩き方が出来ない仲代の様子を見た黒澤明監督はイライラします。たったのワンカットの撮影がなんと半日がかりの撮影になってしまいました。

黒澤明監督のほうはこの出来事をすぐに忘れてしまっているようですが、何回も何回もやり直した仲代の方は絶対に忘れることのできないとても思い出深いものになりました。そして無事に養成所を卒業する前年の1954年(昭和29年)に初舞台をふみ、養成所を卒業して俳優座に入団となっていますが、俳優座の養成所時代の生計をたてるためにバーで働いて、電車賃を節約するために移動手段は歩きです。お金を節約するために、おんなじ洋服を着ていたそうです。

もちろん心の芯に思うところがあったのでしょう。目だけはギラギラするという養成所時代の生活だったようです。

目が異様なほど、ギラギラさせているのは若い頃のロバート・デ・ニーロやアル・パチーノも、ものすごい目で役を勝ち取っていったといわれているのでこの「ギラギラ感」というのが、若い役者で成功する人には共通点のような気がします。

仲代達矢もきっと同じようにギラギラした目をしていたと思われます。俳優座入団してすぐに秋の舞台公演で抜擢されて、それを見た女優月丘夢路の推薦で、「火の鳥」で月岡夢路の相手役として大抜擢されて映画に本格デビューを果たします。そしてその翌年にも、冷酷なヤクザを演じて映画界でも存在感を示します。

そしてこの時代といえば、映画大手5社がぶいぶい言わせていた時代でもあります。映画会社と専属契約をしなけりゃなかなか映画の仕事はもらえないという時代でありながら、仲代達矢の選んだ道は映画会社と専属契約を結ぶことはしないで、フリーの道を選んだ。というのが男気の現われだと思います。専属契約をしなくても、役者道をしっかりと邁進すれば仕事はくるという強い信念を感じます。そして黒澤監督から映画「用心棒」に出演しないか。というオファーをもらい、仲代からするとあの時の・・とエキストラ出演したにがーい思い出がありますが、出演して三船敏郎に対抗する敵方を見事に演じきります。高い身長と細身の身体という舞台栄えする体格で、演技の方はというと綿密に演技を練り上げるという役者としての姿勢が、多くの名監督を魅了して映画への出演依頼が舞い込みますが、舞台人として1年の半分は舞台と決めて舞台に立ち続けたというのも、かっこいいじゃないですか?!


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